第25話「
監督:実相寺昭雄
PDF版シナリオ
当初に提出したプロットは、人里離れた場所の、テレビ中継車という密室内に限定したホラーだった。外に居るキャメラマンが撮った映像がモニタに窓の様にあるだけの閉じた空間は、非常に魅力的な舞台だと思えたのだが、実際に撮影となると、その狭さ故に実車での撮影は難しいのも事実であり、完成作品の様な設定へと変更をした。
この設定は、私の個人的な体験が基になっている。実相寺監督と初めて会った時の記憶だ。
大学在学中、私はコマーシャルフォト誌の取材ライターをバイト的にしており、CMで活躍する特撮マンにインタヴュウをしていた。そこで美術の池谷仙克氏を日活撮影所に訪ねた折り、私が実相寺作品に影響を受けたと話すと、「波の盆」を撮影している監督に紹介してあげようと、御厚意でステージに連れていってくれたのだった。
日活の土のステージに建て込まれたセットの裏側は、まるで放送局のサブの様にビデオ機材が置かれており、実相寺監督はそこにおられたのだった。映画スタジオに、テレビ収録の機材。そのアンバランスな状況と、実相寺監督の姿は、あまりにもイメージとしてマッチしていたのが鮮烈に記憶されている。

そしてもう一つの基になったものが、実相寺監督自身が「ウルトラマン」や「怪奇」、それに続くATG映画について書かれた「闇への憧れ」という本(現在絶版)だった。どんな気持ちで子ども番組を撮っていたか。それ以前のテレビ・ディレクター時代、同期入社の方との確執ややりとりなど、皮肉に満ちた筆致で活き活きと描かれていた。
テレビマンをキャラクターとして描く、という物語を構想した時、「闇への憧れ」から受けた印象をフィードバックさせない方が難しかった。
これは、実相寺監督に厭がられるかもしれない、とも思ったが、この事についてはさほど抵抗を受けなかった。

「ヒトガタ」の改稿は、大筋自体は変更しないものだったが、「闇」は実質的には違う物語を四回書いた様な感覚がある。最初のとっかかりまでは、実相寺監督と私の意図は一致していた筈なのだが、脚本にすると接点がなかなか見いだせなくなっていたのだ。
限定された状況の中で、じわじわと起こる怪異、そして、そこにいる人物達の意識が変容していく様――、それこそがホラーであり、テレビという媒体にて、ファンダメンタルなホラーが実現出来るのではないか、というのが私の狙いだった。
実相寺監督には、こうした種類のホラーというのは自己の文法には無かった様で、登場人物はリアクションしかしていない、という不満を述べる一方で、こうしよう、という意見がなかなか私に提示されて来なかった。
※ホラーとは、恐怖を感じている作中人物の感情を観客に伝えるメディアであり、原理的に言えば、そこに描かれているのはすべからくリアクションでなくてはならない。


2稿目を上げた時に、監督から、廃屋を彫刻家のアトリエにしたい、という積極的な意見が出てきた。
その少し前に、現在最高峰と思われるアメリカ出身のオペラ歌手ジェシー・ノーマンの公演が日本であり、コクトーが詩を書いた「声」、そしてシェーンベルクの「期待」というモノ・オペラ(独りのみで演じきるもの)がその演目だった。「期待」の歌詞には、彫刻家といった存在は出て来ないのだが、舞台の美術として、現代彫刻の様なオブジェが多く置かれていたという。オペラ演出家でもある実相寺監督は、そこからインスパイアされて、彫刻家と妻と愛人というモチーフを、この廃屋の「過去」にしようとしていたのだった。
監督から投げ返されたボールを受けて、やっと私はこの物語を進める窓口を見出し得た。更にこの打合せ時に、「ヒトガタ」「闇」のキャスティング案についても話がもたれた。「闇」の主人公について私は、イメージとして若い頃の田村亮氏を挙げた。実相寺初期映画の主役であるところからの発想だった。実際には橋爪功氏という、やや意外ながらも、実相寺作品の主役らしい役者が選ばれた。
一方で、ディレクターと対峙するテクニカル・ディレクターには、嶋田久作氏をオファーしている、と聞かされる。「屋根裏」「D坂」で明智を演じられた、嶋田氏――。TDのキャラクターは、嶋田氏を念頭に、やや役割を拡大して台詞も全面的に手を入れた。「プロバビリティの犯罪」などという語を持ち出せたテレビドラマはそうあるものではないだろう。トリックスターであるディレクターを中盤、ロジックで追いつめるくだりは脚本以上の迫力になっていた。

取り敢えずの決定稿を出して、安堵していたところ、実相寺監督がラストについて、やはり何かはっきり目に見えるオチをつけたい、と言われた。
「顔」が恐怖を伝播させていく、というテーゼの物語なので、それはやはり「顔」であるべきだと私は考えていた。自分でイメージ画を描いたり、フランシス・ベーコンの絵や能面などの写真を集めて、顔の持つ恐怖性をなんとか監督に見出して貰いたい、と思ったのだが、最終的には完成作品の様な結末となった。肉体感のある存在が刃傷する――というラストは、私から見ると一層難解なものになった様に思えた。
しかし、そこに至るまでの過程は脚本通りに進行しつつ、閉塞状況の中で、何かただならぬ事が起こり始めているという臨場感は圧倒的であり、テレビドラマに於いて、ファンダメンタルなホラーを生成し得ている様に、私には思えている。
テレビ劇で、本当に怖いドラマというものが作り得るのだろうか。その事について考えを押し進める内に、伝播する恐怖という概念をテーゼとし、テレビというメディアそのものについての言及こそがドラマの本質に至るというメタフィクションになった脚本だった。