小中千昭インタビュー

 このインタヴューは、フランスで発行されているアジア映画専門誌 HK に掲載されるものです。HK 編集部の依頼を受けて、特撮・アニメのジャーナリズムでずっと活躍されてきた中島紳介さんがインタヴュアーを務められています。
 インタヴューは、1999年の初冬に行われました。

 

HK 『lain』の企画の発端について、かいつまんでお話し下さい。

小中 最初はPLAY STATION用のゲームソフトを中心に、アニメや小説とのマルチメディア・ミックスというのを、プロデューサーは考えていたと思うんです。でも実際は、テレビのアニメ・シリーズというのは「やれたらいいね」という程度の気持ちで、とりあえずはゲームの制作から始まったんです。アニメの制作に較べて、少人数のスタッフで済みますからね。私自身は全体の企画の立ち上げからからんでいます。オリジナル・キャラクターデザインの安倍吉俊氏(Yoshitoshi Abe)とゲーム版のディレクターの中原順志氏(Junji Nakahara アニメ版ではCG Works担当)、上田氏(Yasuyuki Ueda パイオニアLDC プロデューサー)というのがコア・メンバーでした。ゲームの基本設定は私自身がやりましたし、(ゲーム中の)アニメーションのパートのシナリオも私が書いています。

HK ゲームの内容はどんなものだったんですか?

小中 簡単に説明すると、PLAY STATIONのCDをセットして立ち上げると、仮想のOSが起動して仮想のネットワークに接続する。プレイヤーはそこにある情報を、ランダムに引き出してゆく。それは何に対する情報かというと、lain という少女に関する情報なんですが、それがどこまで真実なのか分からないような、非常に混濁としているし、矛盾もある内容なんです。さらに、普通のゲームだったらフラグを立てて順序だて、いわゆる正解ルートというものが必ずあるのですが、lain の場合はそれがないんですね。へたをするとゲームを始めた途端に終わり、というような最悪のケースもありうるぐらいの非常に意地の悪いゲームです。ですから、これはもうゲームではなく、我々はサイコ・ストレッチ・ウェアーと勝手に名前をつけてましたけれども、はまってみてもらえるとなんとなく納得してくれるかなっていうような、要するに一種の“雰囲気もの”といいますか、ヴァーチャルな雰囲気を味わってもらうためのソフトなんですよ。

HK 引き出される情報がいろいろあって、lain の実体が掴めないような部分もある訳ですね?

小中 そうです。まあ、無尽蔵にデータがストックされているものだというふうに錯覚を起こす、ギミックでしかない。ただ、そのネットワークというものに関しては、そこからサイバーパンクというジャンルを生んだくらいですから、メディアとしては非常に魅力的だと思いますけれども、私たちは最初からサイバーパンクをやろうと思っていたわけではないし、『レイン』はサイバーパンクではないよということはずっと言い続けてているんです。ですから、そのネットワーク内をカッコよく描くってことは、たぶんダサイだろうと思っていました。

HK ゲームとアニメ・シリーズの内容に違いはあるのですか。

小中 アニメ・シリーズはゲームのシナリオの作業がある程度終わった時点で、プロデューサーから「じゃあ、やるよ」と言われて、「エッほんとに?」というような感じで始まりまして。まあ、共通しているのはヒロインのlainという女の子のキャラクターと、そのデザインですね。強いて言えば、共通点はそれぐらいなんですよ。ただ、その全体のテイストであるとか、おおまかなコンセプトというのはもちろん同じですが、私自身はゲームの仕事をコンプリートした、作業を終えた後にテレビシリーズにとりかかっているので、同じことをしたくないという意識が強烈にありました。たとえばゲーム版には、ワイヤードという言葉が出てこないんです。それはテレビ版の時に作ったものです。ゲームは仮想のネットワークを舞台にしていたわけですが、それを物語で構築しなおすとなると、そこ(ネットワークの内部だけ)にこだわり続けなければいけない理由は何もない。テレビ版にする段階で、自分としては次に描くとするとネットワークの内部と外の関係かなあと思って、ネットの話にシフトしたんですね。ゲームでのネットワークは単なる情報が蓄積されている、プレイヤーがコミュニケーションするだけの空間で、それ以上の意味はないですけれども、アニメではもっと違ったかたちでネットワークというものを捉えてみたかったんです。

HK 発売されている『lain』のシナリオ集(このシリーズ全13話のシナリオを収めた本が、日本ですでに刊行されている。 Scenario Experiments Lain theSeries edit par Sony Magazines 1998)を拝見しますと、小中さんご自身によるたくさんの脚注があり、ネットワークやコンピュータのテクノロジーについて詳しく解説されています。すごいぺダントリーだと思うのですが、コンピューターは早くから使われていたのですか。

小中 いや、私自身コンピューター歴はそんなに深くはないんですよ。ですが、スタッフの中にはプログラマーもいますし、プロデューサーをはじめメイン・スタッフは8ビット・マイコンの時代から、極めて簡単なゲームをやっていたというような共通項があるほどのハード・ユーザーばかりなんです。私自身はもう完全に文系なので、そういう趣味はなかったんですけれど。ただ十年くらい前からMS-DOSのについて興味を持ち始めて、仕事じゃ使う気にならないけれど、何か、その閉じた感じがいいなと思って(コンピュータ関係の)本はよく読んでたんですね。本格的に使い出したのは「レスト・オブ・アス」Rest of us 、つまりマッキントッシュがちょうど手に入りやすくなった時期です。実際、コンピュータを自分で買う前から、シナリオの中で「お父さんがバッチ・ファイルをどうのこうの」っていうセリフを書いたりしていたくらいですから、やっぱり好きだったんでしょうね。
『lain』という作品は、そのデジタル・ワークとセル・アニメーション、それもテレビ作品の今の水準をはるかに超えたものですが、その二つが合わさって出来た奇跡的な作品だと思います。デジタルの部分だけに関して言えば、やっぱり1998年のあの時でないと出来ないことだった。というのは、スタッフがみんなマックを持っていて、ほぼ放送に耐えられるクオリティーの映像を、パソコンで作れるようになった最初の時代なんですよ。監督、プロデューサーをはじめ、各エピソードの演出担当、みんな総出でデジタル・ワークをやっていまして、それで何とか毎週の放送スケジュールに間に合わせることができた。これはやっぱり、一年前なら不可能だったでしょう。ハードディスクやメモリーの高価な時代だったら、「これは業者さんに頼むしかないね。」「うん、じゃあ出来ない(予算的に)」「だったらセルでごまかすか」ということだったと思うんですよね。今年に入ってこれ(『lain』のような画面作り)をやってもカッコ悪いし、決して新しさはないんですよ。今では民生機、市販のオール・イン・ワン・パソコンでさえビデオがいじれる時代ですからね。lain は1998年のあの時期、新しもの好きの機械好きがよってたかって作ったという側面があります。
それとネットワークに関しては、私 はパソコン通信もまだ4、5年しかやってないので、newsgroupとか草の根BBSなんていう時代を知らないんですけど。私が始めたのは、モデム最速が9600bpsの時でしたからね。なので 私自身、決してネットワークの世界が現実世界の上位階層だと信じ込んでいるようなファナティックなネット人間ではないし、作品内容でもそうは言っていないですよね。作品中のダイアローグとして繰り返し出てくるのはドラマの必要性からですし、ゲーム版にしてもアニメ版しても、エンターテイメントとしての安全弁、最低保障というのをどこかに目標として定めている。それはプロの仕事としてやらなきゃいけないことで、常に考えています。いや、プロデューサーまでが、別にそんなものは(深く考えなくともいい)って言うんだけれども、そうはいかないだろうと思うんです。一応これは商品なんですから。

HK アニメ版はビデオ作品ということではなく、最初からテレビ・シリーズとして企画されたんですか?

小中 そうなんですよ。それで、売りになるようなメカも出なければ怪物も出ないという部分で、非常に自分としては不安があったんです。自分のメインのジャンルはホラー、というか、自分はホラー作家だと思っているので、まず、ホラーとして成立させる。そこから先、なにか予想も出来ない異質なものに変容していくことになれば、作り方としても素直だし、観客もついていきやすいかなと思ったんです。ホラーの構えとして、あの(死んだ人間からメールが来るという)話を枕にして、次に、あの世というものとネットワークっていうのを重ねてみようというのが、テレビシリーズ『lain』のテーゼですね。でも、それは結論じゃなくて「(もしかしたら)あの世とネットワークは繋がっているのかもね」というくらいのところからスタートしたんです。

HK たとえば人間の電気的な情報というのがあるとして、それがいわゆるあの世というか、ワイヤードの世界に蓄積されていて、たまたま現実世界に浮遊してきたものが、ふつうの人間には幽霊のような形で見えるという描き方ですよね。

小中 情報がパッと何らかの形で具現して、その情報世界と現実世界とがシンクロした時に、亡霊というようなものが垣間見える時があるのではないかっていう、これが最初の取っ掛かりです。これが結論なのではなくて、あくまで取っ掛かりなんです。だから強いて言うなら、アニメ版の『lain』で、あのワイヤードというのが何であったかというと、もしあの世というものがあるとして、あるいは天国でも地獄みたいなものでもいいんですけど、それと現実世界の中つ国――ミドル・アースっていうか、両者をつなぐだけの場でしかない。そこに意味があるわけではない、というのがまあ、アニメシリーズの結論として導いたものです。私 自身はどう考えているかっていうと「うん、まあ、そういうこともあるしね(別の可能性もあるしね)」っていうような感じです。何らはっきりした結論があるわけじゃないけど、少なくとも、上位階層ではないだろうと思いますね。

HK 第一話を見た時には“電波系”といいますか、冒頭で女の子(千砂)が自殺するシーンにしても、lain の家族の描写とか、ラストの少年のつぶやく姿にしても、あのイッちゃっている感じが何とも怖くて、気持ち悪かったんですが、ストーリーが進むに連れて、だんだん作品のホラー的な印象が変わっていきますね。

小中 一話はやっぱり、特別なフィルムになってまして、中村監督も作画監督の岸田隆宏さんも、かなり個人的なフィルムにしてるんですよね。たとえばlainの指先からエクトプラズムがわーって出てくるシーンのレイアウト【注:=画面設計。原画と背景のもととなるもので、実写で言えばカメラのフレーミングに近い。岸田隆宏氏は全体のキャラクター・デザイン以外に、この第一話の画面設計とクレジットされている】だけで一ヶ月半もかかっていて、それを岸田さんは一人で描いてるんです。それから、lain が帰ってきて机に近づいていくショットを引きで描く(戸を開けて、肩から鞄をはずしながら机のところまで歩いていくロングのショットから、机の上のNAVIや時計をなめながら、下からのアングルcontre-plongでlainの表情を捉える。ペン立てやクマの人形、小さな写真などの小物が置かれているのを眺める主観ショット――という10秒足らずの細かい描写)なんて、今のテレビアニメでは絶対やらないことで、まあ、あの異常な感じですね。「なぜそんなことをするんでしょう、 この人たちは」っていうような凝ったことをやっているのが、第一話です。 でも一話ではまだ何も言ってないんですよね。状況説明もしていなければ、ドラマチックなストーリーが始まるわけでもない。

HK 聞くところによると、小中さんがシナリオを書いている途中で監督が(中村さんに)決まったんだそうですね。

小中 なかなか適任の方が見つからず苦労しました。実は私もプロデューサーも、それまで中村隆太郎さんという人には全然面識がなかったんです。最初の頃は打ち合わせしてもほとんどしゃべらない方で、正直言って、大丈夫かなって思ったりしたんです。ところが、絵コンテを見せられて、ごめんなさいっていう感じで(その力量にひれ伏してしまいました)。それ以降はもう、監督が「これはいいね」っていうところを自分なりにたぐっていって、この監督は何をやりたいと思っているのかっていうのを私が逆に想像しながら、終盤のシナリオを構築をしていくことになりました。その意味では全然、お尻(ストーリーの結末)が見えていないという、演繹的な作りをしてました。

HK  最初から十三本で完結の予定だったんですか?

小中 そうです。最初の四話ぐらいまでは、私 がもう独走して書いていた状態。お尻も見えないまま、何かうねうねうねうねと、それこそ狂ったように書いていました。そのあといったん作業の中断があり、中村監督が参加してきたあたりから、羅針盤を得たという感じで方向性が見え始めた。その意味では、第五話は一番、自分としては計算したイッちゃってる感じっていうのを出してみた回で、六話はすごくストレートなSFのエンターテイメントにしました。それで、どのあたりで結末に向けてストーリーを落ち着かせるかということであがいているうちに、八話というのが「プロデューサーと私が当初からやりたかったことって、こういうことでしょう」というのを、実践した回です。それで九話がまた変な回で、半分がドキュメンタリーというスタイル。要するに世界観の、だいたいこういうことを基礎にして物語を作ってますということを、一応ちゃんと言っておこうと説明を企てた回です。で、十、十一、十二話で話を閉じる。そういう意味では、非常にきれいな構造をしてるんだけど、それは最初からそうしようと思っていた訳じゃ全然ないんです。今ふりかえると、そういう風に言えてしまうんですけどね。書いているときは、もう手探りですし、終盤はほんとにちょっと辛かったですね。ひどいもので、私はプロットさえ一本も書いていないんです。だから中村さんたちは「次、どうなるんだろうね、これ」っていう感じで、連載小説を読むみたいに、各話のシナリオが出来上がるのを楽しみに待ってた状態で……。

HK スタッフの方はシナリオが来るまで、話がどうなっていくか分からないという状態だったんですか?

小中 ええ。そういう待たれ方をされてるっていうのを途中で聞かされて、それがまたプレッシャーになってました。まず、この待ってくれているスタッフの人たちを楽しませなくちゃならないっていうように。

HK 小中さんはシリーズ構成・脚本というふうにクレジットされていますが、それでは、この作品に関しては仕事の進め方が他の場合と違っていたんですね。

小中 シリーズ構成というのはですね、この作品に関してはギャランティーのためにクレジットされているようなもので、実際には構成は何もしていません。

HK 普通はシリーズ構成というと、全体のプロットを立てて、各話をいろいろなライターさんに振り分けたりする役割ですよね。

小中 私 はここ二、三年で、シリーズ構成というのを五、六本くらいやっています。最初はシリーズ構成って嫌いだったんですよ。シリーズ構成の人が、ほんの二、三行のアイデアを出して、それをライターに振り分けて――という方式は、自分がライターとして参加していたとしたら嫌です。自分が書くなら、自分の中から出てくるものを物語にしなきゃ納得できませんから。だから逆の立場で(自分がシリーズ構成として)人にそういう方式を強いるのも嫌だって思っていたわけです。私がシリーズ構成をやる時は、毎回ライターを全員集めて、まずそれぞれが担当する回ではどういうことをやりたいですかというところから聞く。その後も話し合いをしながら、シリーズの縦軸として必要なことを付加していくっていうやり方を常にしています。私のシリーズ構成者としての仕事は、そういうやり方をしますが、『lain』に関しては私自身がすべてのシナリオを書いているので、クレジットのみで全くそういうことはしませんでした。この直前に『バブルガム・クライシス TOKYO 2040』('98)っていうアニメのテレビシリーズをやっていたのですが、それでは脚本としてクレジットされています。こっちはシリーズ構成もやっているんですけど、あえてクレジットとしてはシリーズ構成はやめて、脚本とだけ入れて下さいと頼んだんです。ところが、制作会社によってはシステムの違いなどで、否応なくシリーズ構成とついてしまうところもある。まあ、これは私があがいていもしょうがないだろうということで、最近は割り切ってクレジットにはあまりこだわっていないです。

HK そういう場合は「原作」というニュアンスもあるんでしょうか。

小中 うん、まあ、ケース・バイ・ケースでしょうね。やっぱりシリーズ構成というのは、そういうこと(前述のような振り分け)をしなきゃいけないんだよという考え方も絶対あると思うし、それで成功した作品も数知れずある訳だから、それはもう個々の場合で、ばらばらなんじゃないかしら。

HK 全体のプロットはあえて立てなかったということですが、そうすると毎回、非常にコンディションに左右されて、苦労された部分も多かったと思います。やはり終盤では、話をまとめるのに苦労されたのでしょうか。

小中 それは当然、十三本の作品として閉じるものだから、ラストには苦しみました。特に、中途半端にやり逃げをしたくはなかった。まとめるということではなくて、作品としての首尾は一貫させたい、言いたいことはちゃんと言い切りたいということを、いかにただの予定調和じゃなく終わらせるか、というところが問題でした。結果的には、ドラマのエモーショナルな部分では非常に予定調和的になりましたけれど。だから、あそこまでヒューマニスティックなストーリーになるとは最初は思ってなかったんです。やっぱり人間の物語だよね、人間ってこうなんだよねっていうふうな方向に傾いていったというのは、中村監督の無言の誘導が大きいですね。それがなければ、一から四話あたりまでの、クールなと言えば聞こえがいいけど、割と格好つけた、斜に構えた感じのもので終わっていたかもしれない。まあ、見る人を遠ざけてしまうような、そういう醒めた作り方の方が気持ちいい作品もあるんですけど、『lain』の場合は違っていて、もう駄目な人にはまったく拒否されちゃうんだけど、見てくれた人は八話あたりで共感のあまり「うー」ってうなりながらのめりこんで、一緒に最後まで心中してくれたっていう、そういう感じじゃないですかね。まあ、それは作っているこっちも全く同じで、のたうちまわっていましたからね。

HK 一番苦しかったのはどういう部分ですか?

小中 『lain』の苦しさって何だったのかなあ。やっぱり自分の中で、これはアニメーションだからとか、テレビ作品だからというような枷を取っ払って、あの時に自分が思っていることを、わりとストレートに出していた作品ですね。その分、自己をさらけ出すことに対する恐怖っていうのがあったのかもしれません。

HK 『lain』のテーマや少年・少女たちの描き方には、『新世紀エヴァンゲリオン』との共通性が感じられますが、影響を受けたということはありますか?

小中 そうですね、『lain』の制作は四話ぐらいでいったんブランクがあるんですよ。それまでは、『エヴァンゲリオン』の存在はもちろん知っていたんですけど、『lain』につきっきりで見たことなかったんです。それで「lain は、綾波入っているよね」と言うスタッフが一人いたんですよね。「おめえ、何言ってるんだ」って腹が立ちまして、もう見る前からある種のバイアスがかかった見方をしていた。その後、ブランクの頃にちょうど再放送が集中的にあって、それで初めて、全部通して見ました。ああ、なるほどねっていうか、いや、これはこれで素晴らしい作品だと思いましたけれど、lain というキャラクターがそんなに(綾波レイに)似ているとは思わなかった。

HK フランスでもビデオが全話発売されていて、内容的に近い部分(美少女キャラが登場し、日本の少年少女の実体やオタキズムに触れながら、コミュニケーションやアイデンティティーの問題を取り上げているというあたり)があるのでは、ということなんですが……。ヴィジュアル的にも、電柱が立っているシーンが象徴的に出てきたり、全体の風景の白っぽい感じ、夏の日の蜃気楼のような感じで描かれているところとか、似ているようにも感じられます。その辺の雰囲気というのはいかがですか?

小中 まあ、確かに。でも、電柱は偶然ですよね。私は、電柱をモチーフにした作品のプロットっていうのは、もう七、八年前に一本書いているし、全く偶然に、uedaプロデューサーも電柱が大好きで、自分のライカのF3で写真をたくさん撮っているんですよ。だから『lain』の中で使ってる背景の多くは、彼ともう一人のカメラマンに頼んで、撮りおろしてもらった写真を参考にしているんですよね。電柱の写真だけで4千枚ぐらいあるんです。

HK 路上観察の会とかに入ってるんですか?(笑)

小中 別にそういうのじゃないんですけどね。私もカメラはメカニカルとして大好きなんだけど、スナップとか人を撮るのはあんまり好きじゃない。でも、街中に住んでるわれわれが撮れるのは何かと考えると、いきおいね、見上げる天、そして電線が目に入ってきて、これは「日本だけの風景だよな」という気がしちゃう。今回、『lain』がネットワークやコミュニケーションを軸にした話であるところに、電柱が出てくるというのは恥ずかしいぐらい直球な話です。それはもう逃げも隠れもしませんっていうか、開き直っています。あと『エヴァンゲリオン』に似てるのは、画面にタイポグラフィの文字を出すとか、その辺かな。

HK ああ、それもありますね。

小中 でも、あれ(文字を出すこと)はね、庵野さん (『エヴァンゲリオン』の監督)の場合は市川崑監督の映画、特に金田一耕助シリーズから来ているんだろうし、私のはゴダールなんですよ。それと、私はホラー・ビデオでキャリアをスタートしていて、最初からドキュメンタリー・タッチのものを作っていたんですが、よく黒味の画面にスーパーインポーズを出していたんですよ。 何年何月何日っていう具体的な年月や土地の名前を入れることで、擬似的なリアリティーを出して、ほんとにあったのかも知れないという感覚を誘発する。いわゆる一つのシステムとして意識的にやっていることで、それはまあ、そういえばゴダールもやってたよねっていうところからスタートしているんです。私の過去の作品を見た人は分かるんだけど、以前から同じことをやっていたんですよ。

HK いや、それはもう、テクニックとしてもすごく普遍的ですよね。

小中 確かに今の若い人、つまり市川崑とかゴダールの作品を見たことのない人たちからすれば、一緒というか、あるいは真似してると見られるのは致し方ないかもしれない。でも、それは君たちが勉強不足なんだよということですからね。

HK 話が前後しますが、小中さんとしてはストーリーを作っていく段階で、絵コンテを通して監督とのやりとりはあったと思うんですが、スタッフとの具体的な打ち合わせというのは、密にはなさってなかったんですか?

小中 特に密にはしてないですね。もちろんシナリオを書いて、それをめぐっての会議というのは当然やるんですけど、監督が「ここをこういう風に変えてくれ」って言ってきたことはほとんどないんですよね。強いてあげるなら、lain がサイベリアに積極的に行きたがるか否かっていうので、大喧嘩でもないけど、冷戦状態みたいな感じになりまして。

HK 監督はそこで突っ張ったんですね?

小中 その段階から、ああ、もう玲音という少女のキャラクターは(監督に)持っていかれたって思いました。

HK すると先ほどの話とは逆に、小中さんの方としても中村監督のコンテが出来上がってくるのが楽しみという感じだったんですか?

小中 そうですね。やっぱり一、二話を書いているあたりは、これがコンテの段階で、もっとアニメっぽくアレンジされてしまうんだろうなって思っていたら、中村監督のコンテの方がシナリオよりもイッちゃってた。これはすごいものになりそうだっていう予感がすでにありました。

HK 小中さんは最近、アニメのお仕事が多いようですが、それはご自分で意識してやられているんですか?

小中 うーん、私はライターになったのもそうなんですけど、なんとなく全部、受動的に来ているんですね。この十月から『THEビッグオー』(TVS)をWOWOWでやるんですが、これが年内、正確には来年の頭で放送が終わると、たぶん来年はもう、私はアニメの仕事はありません。しばらくアニメはお休み状態になっちゃうんです。でも、それは今アニメの仕事はお断りしているんですっていうことでは、全然ないんですけどね。たぶん、小中は忙しそうだねって、皆さん思っていてくれるのでしょう。それで今は実写の映画の仕事が幾つかきていて、そういう時期なのかなっていう感じなんです。

HK シナリオを書く立場として、アニメと実写の違い、みたいなことを意識されることはありますか?

小中 それは、常に意識します。私にアニメっぽいものを書けっていう人は、あんまり多くないんですよ。むしろ、今のアニメの表現にありきたりなものを感じてしまうような監督さんが、私の実写の作品が好きで、好んで私を呼ぶケースが最近は多いんです。いや、「私は正統的なアニメっぽいものも書ける、『ふしぎ魔法ファンファンファーマシィー』('98)も書いていたんだから」と思うんですけどね。 でも、相手と話してみると、どうもそういうものは求められない。
そうするとこっちは「ああ、それなら“ニュアンス芝居”を書いていいのね」と思って、普通の顔で平然と嘘をつくキャラクターを出しちゃうわけです。すると相手の監督さんは、「俺は、このシナリオでコンテ切れるけれど、ほかの演出家には頼めないよ(難しいから)」なんていう話になって、よく怒られるんですけど。
私も弟もそうなんですけど、生まれた時はすでに『鉄腕アトム』(国産アニメ第1号)が放送されてますから、生まれた時からアニメを見ているわけです。でも、そのあとで特撮ものなんかも見て、そうやって見ながら育ってカルチャーとして得たものは、価値としてはイーブンなんですよね。確かに、自分が作るもののメインは実写だっていう感覚はありますけど、どっちが上とか下とか(という意識は)全然ないんです。だから、どちらかしか作れないということもないと思っています。ただ、『lain』に関しては実写じゃ出来ないものをやろうとしたんです。やっぱり現実と幻想が混濁してくるモチーフっていうのは、私は好きなんです。このモチーフを扱おうとしても実写には限界があるんですよね。しかしアニメだったら、その限界が超えられるのではないかと思っていた。この点では成功したと自分自身で思っています。
それと、内容というか、テーマに関して言うと、実は以前、にもサイバー的なネタで『ディフェンダー』The Defender ('96)っていう実写を作った(シナリオ)ことがあるんです。見事に黙殺されたというか、誰も関心を持ってくれなかった。しかしこういうネタは、ひょっとしたらアニメ・ファンの方が食いついてくれるのじゃないかな、という予感はありましたね。実際に『lain』を作ってるときは、自信は全然なかったです。「こんな作品、いったい誰が見るんだよ」って、ずっと言ってたくらいですから。ところが、意外とテレビ東京の放映時にファンが盛り上がってくれたんですよ。それもインターネットで。私たちはもう大喜びして、その素直な喜びが放映途中にやった『シフト』ShiftのBBS形式のインタヴュウにも出ているんですけどね。ファンの作ったホームページのアクセスが二万件を越えたとか、そういうことで喜んだりした。たぶん彼ら――ファンの人たちに聞いてもそういうことだと思うんだけど、これが実写だったら見られなかったと思う。よくアニメは記号だって言われますけど、いわゆるアニメーションというジャンルの持つ特性とか、アニメじゃなければ感じられない何かっていうのがきっとあると思うんですよね。

HK 作品の中で時制のスイッチ(切り替え)が随所にみられ、過去と現在が混在して描かれる。現在なのかと思って見ていると、実は過去だったとか、そういう描写が随所に出てきますね。これもアニメならではの演出のように感じられま
した。

小中 実写でやったら、もっと根性がいりますよね。というより、もうちょっと工夫しないとうまく表現できないんです。それがアニメだと、多少の省略や飛躍をしても、見る人の方で(イメージを)補完してくれる。

HK 見ていてすごいと思ったのは、五話です。美香が自宅に帰ってきた時に、もう一人の自分と出会う。あれはちょっとビックリするというか恐いシーンだったんですけど、シナリオ集を読んで初めて、あれは美香が二人いるように見えるけれども、実はあそこで時間が切り替わって、現在から未来のシーンにバトンタッチされている。そういう演出テクニックのひとつだというふうに理解できたんですけど。

小中 でもシナリオの表現は表現として、見た人が感じたことも解釈の一つですから、感じ方が違っていても構わないと思うんです。むしろ、あそこでは「何だ、これは」という、変な違和感のようなものを出したかったんです。五話は熱に浮かされて、ある種、高揚感の中で書いたものなんだけれど、今にして思うと、ちょっと理詰めに過ぎたかなっていう反省もあります。むしろ、もっと感覚的に描いてもよかったかな。それから、もうひとつ実写とアニメが違う点は、アニメの場合、最高の芝居というのをとりあえず想定して書けてしまう。それは当然、原画マンの腕とか声優さんの力量で左右されることはあるのですが、とりあえず実写ほどには、ある種の見切りをつけてしまわなくてもいい。実写の場合だと、下手をすると芝居が全然成立しないわけですよね。それがアニメーションだと、そういう心配をせずに最高の芝居、最高の演出というものを想定して書いてしまえる。勿論結果は別だとしても、それはライターの立場からすると大変な魅力な事なんです。十話で、英利とlainが役割を入れかえる(相手の心を読み、相手のせりふをしゃべる)というシーンがあるんですが、これも実写だと難しいから簡単にはシナリオに書きにくい。アニメだったら、そういう心理療法があったなというような思いつきで、ぱっと書くということが出来てしまう。ところが、アニメでは何でも書けてしまう反面、ワイヤードのインサイドの描写は、絵柄としてチープになる可能性が(製作状況からみて)非常に高いので、あがきにあがいて六話まで書かなかった。あるいは、あのまま書かずに逃げ切ったほうが、一つのスタイルとして美しかったかもしれない。結局、やはり逃げることは出来ないと考え、思い切って描ききっていきました。実際に出てくるのは畳だったりするんですけどね(笑)。

HK ワイヤードの内部を描くCGですが、やっぱり技術的には面白いことをやっているなという感じがします。もちろんそれはシナリオで意識して、ここはCGだという風に指定して書かれているんですよね。

小中 シナリオ段階からここはCGだとはっきり意識して書いたのは、九話や十一話です。でも、lain のCGというのは、殆どが2Dのデジタル効果であって3DのCGというのは少ない。After Effectsというソフトウェアが非常に多用されました。ちょうど去年、サード・パーティーからいろんなプラグインが発売されたんですが、店頭にでる前から、代理店まで私が直接行ってそれを売ってくれと無理にお願いして手に入れた。九話の実写ドキュメントのパートは、その中のCinelookというプラグイン・フィルタを使って、昔の記録映画のようなフィルムの粒子の荒れやひっかき疵を加えました。ここでやっているのはCG処理には違いないでしょうが、語弊を招くかもしれないけれどCGI(Computer Generated Images)ではない。さらに、その上でハレオという機械で最終的な編集をしてまして、これはハイ・エンドのデジタル編集機で、相当すごいことがリアルタイムで出来てしまう。もちろんそれは最後の仕上げの部分だけで使うということしか出来ない。ハレオだけですべてをやろうとすると、とても製作費の中には納まりませんから。『lain』の技術面に関しては、商業作品だからといって、変に大掛かりなことをしていません。やはり、先ほども言いましたように民生のDVで撮った映像を、パソコン上で使うことが簡単にできるようになったというのが、一つの幸運だったんだと思います。
それと、デジタル以外のセルアニメの部分は岸田隆宏さんが、クレジットではキャラクターデザインとしかクレジットされてないんですが、事実上、総作画監督を務められていて、力を注いでいました。『lain』をやっている時は、会社に泊まり込みで黙々と原画の修整作業をしていて、原画もかなり自分でやっています。この人のスーパー・アニメーターぶりを喚起せしめた一つの要素が、「デジタルかっこいい、アニメ負けてられない」っていう闘争心であった様です。それで、アニメーション全体のクオリティーも上っていったというメリットもあったけれど、まあ二度と使えない手だなあ。

HK 映像を見ているとCGを多用した、ハイテク・アニメという感じなんですが、手作りの部分もあるんですね。

小中 いや、もうほとんど手作りですよ。実写のパートは 私がカメラを持って、走りまわっているわけですからね。あんなに疲れたことは近年ありません。通常デジタルというと、機械にまかせて人間は悠々と待ってるっていう印象があるんですが、全然そんなものではなかった。十二話の、地下でMIBたちが殺されるシーンの幽霊の撮影は、DVですらない、八ミリビデオです。頭から毛布をかぶって、自主映画以下っていう状態で、プロデューサーと中原氏二人で撮っていますから(笑)。

HK それはやっぱり、ご自身で八ミリ映画をお撮りになっていたという経験からきているんですか。これくらいのシーンだったら、こうやれば簡単に撮れるよ、みたいな。

小中 しかし、よもやそんな(アマチュアのような手作りの手法での)撮り方をするとは思ってもみなかったです。結局、ぶっちゃけて言いますと、どこもご多分に漏れずなんですけど、今のアニメーションの製作状況というのは非常に厳しく、絵的に満足のいかないようなものがオンエアーされて、こっちはただ指をくわえてそれを眺めるだけというケースがとても多い。私自身、以前にそういう苦い経験があったし、岸田さんにもすごくあったようです。その経験に対するルサンチマンというのが、『lain』に対する情熱になっているのは紛れもない事実ですね。やっぱり岸田さんというのは天才肌の人なんで、二度と後悔はしたくない、自分の名前がクレジットされる作品で、ヘボいものなんか許せないっていう、その辺の気概はすごくあったみたいです。それで、クレジットのギャランティー以上の仕事をしている。なおかつ十二話では、自分の友達の、スター級アニメーター達を自分で声かけて呼んでくる。そこまでやるというのは、普通業界ではあんまりないことなんですよね。それはいろいろな条件があったわけですけど、岸田さん『lain』をやるかどうか決める際に、一〜四話の私のシナリオを読んで、その内容が面白いと思ってくれたから、引き受けてくれたそうです。そういうところでも随分、幸運に恵まれていたんだなあと思いますね。

HK ところで、lain が着ているクマの着ぐるみのようなパジャマが大変印象的なんですが、これはどなたのアイデアですか。クマといえば小中兄弟【注:弟の小中和哉氏は映画監督。劇場作品として『四月怪談』88、『ウルトラマンゼアス2』97など。実写OVの『ブラック・ジャック』96も彼の作品。7歳の時、兄弟ではじめて撮った8ミリ映画はクマのぬいぐるみが主人公。学生のときの自主製作『地球に落ちてきたくま』85はカルト的人気で、小中兄弟の名を知らしめた】のトレード・マークの様なものとして、我々も親しみがあるのですが。

小中 くまパジャマっていうのは、岸田さんのアイデアなんですけどね。私は最初、私の作品でくまというのは、あまりにも出来すぎてるみたいで、ちょっと反対したんです。くまのパジャマを着せるということに対して、岸田さんはなぜそうするかということは言わないんですよ。でも、中村監督が「キッシー(岸田さんの愛称)はいつもサングラスをかけてるんだよね」って話してくれたんですね。それで、同じようにlainにとってのシールドみたいなものなのか、ということが私にも分かったんです。で、私も了解して、そこからlainがくまパジャマを着るのは家族と対峙するとき、あるい外界からの干渉を断つときという演出も生まれた【注:さらに小中氏はシナリオでレインを玲音、レイン、lainと書き分け、それぞれ奧手の子供っぽい性格、ワイヤードのレインに代表される攻撃的性格、悪魔的な性格を与えている】。結果的には、lain のくまパジャマって、ある種、キャラ萌え系の人たちに玲音を印象づけられる一番の決め球になったらしい……。そういうアイテムというのも、やっぱりアニメを作る場合は重要かもしれないですねえ(lain のバッテン髪留めは安倍君のアイディアですが、左右の髪型を非対称にしたのはプロデューサーでした)。

HK なるほど。

小中 そういう意味では、何がいい結果に転がるか分かったものじゃないですね。

HK そういった点で、小中さん自身も含めて、スタッフの皆さんがのめり込んで作ったというか、一生懸命やった部分というのが『lain』の中にはあると。

小中 だから、やってる最中は熱病のように浮かされてました。ふつうライターは、アニメーション作品の場合はプリ・プロダクションに属する仕事ですから、実際に製作に入ったら、出来上がりを楽しみに待ってるねってというのが正しいスタンスなんです。でも私はあがいて、最後までアフレコに立ち会ったりして作る現場にもいました。シナリオ作業とアニメーションのフィルム製作が同時進行的に、リアルタイムでやれたのは、この作品だけですし、また、そういうアニメーション作品でドロドロになるまで、現場のスタッフと一緒に作っていたのは、『lain』だけです。それに、私はもともとテレビのディレクターとして仕事を始めた人間なので、現場にいて古巣に戻れたような気分になれました。自主映画のキャリアで得たノウハウと感覚を生かして、手作りで映像を作るということに関しては、採算を度外視してやりましたし……。でも、それはやったことが絶対いい結果に結びつくんだっていう、そういう変な確信があったから出来たんだと思う。それと自分の動機としては、アニメの制作現場に私のような異分子が入ることで、テレビアニメというものの大枠をちょっと、外側からちょっと、1センチくらい揺らせられるかもしれない、そういう気分だったんですよ。

HK そうやって情熱を共有して、お互いに有機的にサポートし合いながら仕事が出来るスタッフというのは、めったに出会えるものではないと思いますが?

小中 うん、だから、ほんとに偶然ですよね。私は中村監督の過去の作品を見たことがなかったし、安倍君は新人だし、中原氏にしても、私はプログラマーという人種の人と仕事をしたのは初めてだったんです。とても面白かったし、中原氏はゲームのプログラマーだけではなく、今やデジタルワークが仕事の主になって『魔法使いTai!』などでがんばっているんですけど、そういう、とてもいい出会いがたくさん出来たし、たぶんスタッフのみんなは、製作が終わって一年くらい経ちますが、絶対みんな『lain』を引きずっているでしょうね。だから、うかつに続編なんていう話はちょっとしにくいんです。

HK 小中さんの中では、以前に手がけられた『ありす in Cyberland』のような作品と『lain』がつながっている部分があるんでしょうか?

小中 『ありす〜』は『lain』の前に別の会社で作ったゲームなんですよ。で、やっぱりサイバースペースを舞台にしているという点では共通項があります。私 はシナリオにしても小説にしても、自分が書く場合はもうほとんどが日常の中に非日常の存在が出てくるという、そういう内容のものしか興味がないんですよね。それが、幽霊だったらホラーになるし、怪獣だったら『ウルトラマンティガ』みたいな怪獣ものになる。ジャンルとしては何にでも対応できるんです。逆に言うと剣と魔法ものとか、あるいは時代劇的なもの、超未来を舞台にしたものとかは、自分からはあんまり書きたいとは思わない。また、異世界が現実に侵入してくる、あるいはちょっと接点があって、互いに混濁してくるっていうモチーフも好きですね。だから、ネットワークということに関しても前から関心を持っていたようで、『ありす in Cyberland』っていうのは、まさにサイバースペースをワンダーランドに見立てた作品なんです。アリス的な不条理観を下世話なファンタジーに仕立たギャルゲー(美少女ゲームの略称)です。その後、『lain』のアニメ版をやることになったとき、ネットの世界にワイヤードという名前をつけた。雑誌 (当時、同名の電脳雑誌があった。現在は休刊)のタイトルにもあるけど、まあいいか、辞書にはちゃんと載ってるし、普通名詞なんだからってことで見切りをつけて使い始めた時に、lain の日常の環境も必要だと思ったんですね。このように一つ一つの設定が、シナリオを書いていく段階で決定していったんです。
lain のお父さん(岩倉康雄)がどういう人だとかも、実は全然、決めてなかったまま、ああいう変なキャラクターにしていったわけだし、ありすというキャラも最後まで引っ張るつもりはなく、『ありす in Cyberland』に出ていたありすたちを、『lain』には脇役で登場させようと思っていたにすぎなかった。どちらかというと、自分の中のスターシステムみたいなものとして使っていたつもりなんです。ところが、ありすは徐々に重要な役割を担ってゆく。気がつくと『鏡の国のアリス』的な役割をありすが担っている形になったので、書いている自分でも驚きました。これも、ある種演繹的に作っている時の面白さの一つであって、自分自身で物語の仕組みを発見してゆく楽しみがあります。ただ、これは仕事としては苦しいので、あまりやりたくないんですけれど。

HK 途中から、lain の物語がありすの物語へ傾斜してゆくという感じはありますよね。

小中 そうですね。途中で感情移入できる対象をありすにシフトさせるっていうのは、これは計算でやっていたんですけど。そうかといって、フォーカスはやっぱり最後までlainに合わせているんですよ。あくまでlainの物語で、そこで見る側が感情移入しやすいキャラとして、ありすの存在感を大きくしてゆく。ありすは本当にいい子なんだと思ってしまうように。

HK これは個人的な解釈ですけど、いわゆる世界を書きかえられるほどの(神のごとき)力を持つに至ったlainが、単にありすのために、ありすの悲しい記憶を消すためだけに世界をリセットするという話(八話)があって、そこが小中さんらしいというか、小中さんならではの作品なのかなという感じがしたんですが。

小中 でも、lain からすれば、一番の気持ちの拠り所というのはありすであって、おっしゃる通り、そういう解釈が八十パーセントは当たっていると思います。まあ、別にlainには『ありす in Cyberland』のありすのように、サイバースペースの平和を守るために戦う正義――などというものはないですからね。あるとしたら、それは彼女にとって友達しかないんじゃないか。友達といっても、友情というのとはちょっと違うかもしれないし、何かだよく分からないんですけどね。だから、私が書く女の子って、どうしてもああいう生き物っぽいというか、動物っぽい感じになるんですよね。何なんでしょうか、あれは。所詮は男のファンタジーなのかもしれませんが、ただきれいなだけの関係ではどうしてもつまらないですよね。そうやって考えると、第十二話の展開というのが、あれはやっぱり肉体は大丈夫なんだよという、つまらない正論――つまらないかもしれないけど、それが正論なんだよという話をやっておかないといけない。最初にも言いましたけど、作品としての安全装置として作っているのが十二話。でも、そこから先に行かないといけないというのが十三話という訳です。十二話というのは、あれでシリーズを終わらせても全然不思議のない話なんですが、 私たちが描こうとしたのはそこから次のステップ、一歩先だったんです。そうはいうものの、あそこで何もかも失ってしまうありすはかわいそうだなあ、とか、個人的にはいろいろと考えることがあったわけで……。

HK 最終回(十三話)はCMの入り方や、AパートとBパートの切れ目がシナリオで指定されていて、その辺も意図的に作られていますよね。いつもはタイトルが終わってCMが入るのに、すぐに話が始まって緊張感が持続していくというか。あとでビデオで見ると、そういうリアルタイムで見ていた時の面白さが感じられないので残念ですが……。

小中 私たちが狙っていたのは、とにかくlainというキャラクターが、最後の最後でどれだけ実存するか。それだけが問題で、やらなきゃいけないのは最終的にはそれしかないってことで一致していたんです。テレビのオンエアーというのをどれだけ有効に使えるかということは、いろんな手でやってますよね。冒頭で女の人が難解なセリフを、それも毎回違う人がしゃべっていて、一見、誰が誰に対してしゃべっているのか分からない。でも、それは全部、しゃべりかけている対象は見ている人で、そういう意味では、すごく直接話法的なことをやっているんです。一方で、ドラマの中身はすごく引いた感じにして、キャラに感情移入させるのではなく、なるべく淡々と叙事的に物事を積み重ねていくという話法。ほかにも、細かいことで言えば十一話のAパートは総集編になっています。これはまあ、私が最初から「絶対、この辺で現場がキツくなるから(スケジュールを稼ぐために)こういうのを入れとこう」と想定していたわけで、監督は最初、抵抗してたんだけど、案の定、大変なことになってしまった。あそこはもう、それこそプロデューサーから何から何人もの手が入って作られたという感じですけど、その中に一瞬、時報が入るんですよ。あれは、ちょうどテレビ東京でのオンエアーの時の時間に合うように編集しているんです。

HK それは、ちょっと気がつきませんでした。

小中 ビデオで見ると、ただの時報でしかない。リアルタイムで、それも初放映時のテレビ東京のリアルタイムでないと分からないんですよ。ただ、その時はもうビデオを捨ててるというか、ビデオで見るときのことは考えてない。オンエアーで見てもらうということに全力を傾けていました。AVソフトのメーカーが制作しているから、uedaプロデューサーとしては、ほんとうはテレビはファースト・ランに過ぎず、ビデオでの商品価値を第一に考えなければならないのに、彼自身の頭の中からもそんなことは抜け落ちていて、作品をよくするということだけを考えていたんです。ですから、毎回オンエアーが終わると、いろんな人からメールをもらうんですけど、一番うれしかったのは、最終話が放送した後に、「私の部屋にlainが来ました」っていうメールが何通も来たときですね。それは、ねらい通りでしめしめと思った反面、すごく寂しかったのも事実です。
つまり、それまでlainは私たちのものだったんですよ。もともとuedaプロデューサーが「lain というのは、こういう子なんだよ」って言って、安倍君に描かせて作りあげたキャラクターなんだけど、それが私のところに来て、私のものだと思って一生懸命にシナリオを書いた。それが中村監督の手に渡って、いつのまにか監督のものになって、次に声優の清水香里ちゃんの方へ流れて、最終的に、とうとうテレビの向こうに行ってしまった。でも、行ってそのままどこかに消えてしまったんじゃなくて、向こうにいった分、みんなに何かこう、シェアーされる存在になるというのかな。それがまた、すごくうれしいんです。その反面、本当に「ああ、行っちゃったよ」っていう気分もすごくあって……。
最後に、カメラ目線っていうよりは、見てる人に向ってしゃべるという、よくありそうであまりない演出をやっているんですよね。そのカットの原画は、オリジナル・キャラクターデザインの安倍君が描いています。これは私の提案だったんですが、lain というキャラクターの生みの親である彼に、最後にぜひ足跡を残して欲しかった。それは見ている一般の人には判らない、制作に携わるものの思い入れでしかないかもしれないんですけどね。

HK 小中さん自身がそこまで思い入れる、のめり込んだ部分というのは、lain のどんなところにあるんですか。

小中 lain は居場所がない感覚とか、自分の実存にすごく不安を抱くという感覚をもっている。このシリーズは、その感覚をSF的に解釈してみようとしたものです。その漠然とした感覚というのを私自身がいつも持っているので、自分がlainそのものだとは思わないんだけど、でも、英利にああだこうだ(lain は実体のない人間 で、家族も人間もぜんぶ嘘だ)と言われて、涙で自分の家がぼやけて見えるっていう、あの演出を見た時には、私も泣いていましたね。

HK 今の日本の子供たちの中には、自分の家に帰りたがらない子が出てきていて、プチ家出なんていう言葉で言われたりもします。だから、タロウたちみたいに(現在の日本の風俗に照らし合わせてみれば)クラブに出入りする小学生がいても全然不思議ではないんですが、昔だったら「私は誰、ここはどこ」っていう感じが、アイデンティティーの問題として一番大きかったと思うんですね。でも、今は自分がなくて、ないのにもかかわらず、私(今の自分)ではない誰かになりたい、ここではないどこかに行きたいっていう感覚が強いんじゃないかなって思うんです。だから、すごく簡単に自殺したり、簡単に人を傷つけたり出来るんじゃないかなっていう感じがあって、そういう感覚は、この作品にも投影されている気がします。

小中 lain は全く逆で、自分はここにいて、誰なのかということを決めたかった子なんです。なのに喪失してしまっている。ありすたちはむしろ、そっちの(現代的な問題を抱えている)方で、そういった意味では、私はやっぱりこれは今の若い子たちに向けて作ったつもりがなくて、自分の話をやっていたのかなっていう気がするんですよ。今の若い子がどうだっていうのは、あまり関心もないし、よく分からず書いているんです。むしろ、主人公が中学生なのに放送は深夜の時間帯だから、見るのは大学生以降かなって私たちは思って作っていたんです。ですから性的な表現も、テレビとしての限界に挑戦という意味ではなくして、テレビでもここまではやるべきだということをやろうとしたわけで。でも、オンエア直後くらいに『毎日中学生新聞』の記者から取材を受けたことがありまして、その世代でもちょっと話題になっていたらしいというので、「えっ、中学生も見てるの、まずいかな」って思ったこともありましたけれど。

HK 今の子供の生活時間帯って分からないですからね。

小中 そうなんですよね。ただまあ、今の中学生が共感をしてくれるとは、あんまり思っていないんです。もうちょっと上の世代かなっていうスタンスで考えていた。じゃあ、何で主人公を中学生にするのかって考えると、なぜだかよく分からない。ただ、やっぱり中学生(年齢でいえば13〜14歳)というのが一番、人間として中途半端な時ですよね。『lain』で中村監督がこだわったのは、lain の世界は家と学校と行き帰りの電車だけ、あとサイベリアとか、渋谷がちょこっとあるだけで、そういう檻の中に飼われているような状態の自我というものなんです。見方を変えれば、いろんな年齢層の人も似たような立場にあるでしょうけど、考えてみれば確かに、そういう感覚っていうのは中学生の頃の自分に常にフィードバックしていたような気がします。

HK 今のような質問をしたのは、これはフランスの雑誌ですから、フランス人やーロッパの人が日本の映画やアニメを見るときに、それが今の日本の現実をどの程度まで反映しているかということに、すごく興味をもっているように感じられるからなのですが。

小中 いや、実は『lain』を海外売りするというのは、自分からすると、ちょっと青天の霹靂みたいなところがあるんです。もちろん、それはそれで興味があります。どう見てくれるのか、とかね。ただ私自身は、かつてやった『アミテージ・ザ・サード』('95)というOAVとか、その他にもいくか、国内より欧米の方が売れたっていうものが結構あるんですよ。これらの作品は、自分自身もアメリカ映画を見て育ったわけですから、もう、モロに洋画のつもりで書いています。それは別に居直っているわけではなくて、日本人だってこれくらいハリウッドライクなものが作れるよっていう気概で書いた。それに対して『lain』は、ウルトラ・ドメスティック、「これは日本人にしか分からないぞ」っていう世界観でやってる。まあ、言葉の使い方一つ取ってみてもそうです。実は最近、アメリカからもよくメールが来るんですよ。自分でサイトを持っているもんですから、アメリカの、いわゆるジャパニメーションのファンから直接メールをもらうことが増えて、彼らの間では『lain』が結構話題になっているそうなんです。よく読んでみると、ピーンと来るのは大学生、自分はOTAKUですっていうような人が多いみたいです。彼らには渋谷円山町の感覚、渋谷のあの大交差点の匂いとか、そういうものまでは伝わらないとは思うけど、ネットワークとコミュニケーションという大枠のことに関しては、非常に理解されているなと思いました。
まだアメリカでもビデオが半分までしか出ていないのかな。 九話を見たら、きっとブッ飛ぶだろうなって思って楽しみなんです。評価が変わるかもしれませんね。九話で描いた宇宙人って、全然意味ないですからね。意味がないというか、物語と有機的な結びつきを持つキャラクターとして登場させたものではないんです。個人的には、九話は私の好きなエピソードです。UFOフォークロアと、コンピュータのハードウェアやネットワークというものの成立史・発達史をからめて描いたのが、あの回の趣旨です。ルーツをたどって調べていくと、どちらもVannever Bushという人にぶち当たるんですね。この人はMEMEXっていう、いわゆるスーパーコンピュター、知的ツールとしてのコンピューターの、概念だけを作った人。なぜ私がこの人の名前を覚えていたかというと、矢追純一さん【注:UFOドキュメンタリーで有名なテレビディレクター、現在は研究家】の番組を見ていて、MJ-12(マジェスティック・トゥエルブ)のリーダーとして顔を覚えていたからなんです。あ、MJ-12っていうのはUFOフォークロアの大ヨタなんですけどね(笑)。でも、だからって何も、「あんなにもっともらしくロズウェル事件から話を始めることはないじゃないですか」って言われれば、ていうか言われた事があるんですが、それはその通りなんですけどね。あれはもう、私の関心ごとで切り口をつけていったものです。その辺は、バランス感覚を欠いているのは事実で、素直にVannever Bushから始めればいいものを、そのまた前からやろうとしたのです。ブラフとしてはインパクトがあったかなと思いますけど。あの回の再現映像に関しては、先ほど言ったように私がデジタルワークで加工して、昔のフィルムのように見せかけたんです。画面を荒らしすぎたので、このままじゃ放送事故になる、スーパーを入れてくれって局からクレームがきました。テロップなしの方が絶対いいって渋ったんですけど、そうしないと放送できませんって言われて、それでロズウェルとか何とかというテロップが入ってるんですよ。私が最初に考えたのは、荒れた絵がこうダラーっと流れて、見た人が「チャンネルを間違えたかな?」って思うような、フェイクがやりたかった。
宇宙人が実在するかどうかということに関しては、一つの解釈としては成り立つと私は思っています。ヨーロッパでは緑と赤の縞模様のセーターを来た小人が寝室に乗り込んで来るという共通幻想があり、『エルム街の悪夢』のフレディーがそういうセーターを着ている理由はそこから来ているようです。たとえば八話で、ありすの部屋に訪れる lain。あれは、ありすのネットワークを通じて会話をしているのか、いわゆる幽霊が現れているのか、その辺はすごく混濁しているんですが、一種の怪奇幻想の悪夢として成立する。このように、人間の脳内現象としてのUFOフォークロアという側面を中に入れ込んでいるのが、『lain』の一つの特徴ですね。

HK 作品中に出てくる架空のOS 、Copland OS という命名は、やはりMacからの連想ですか?

小中 うん、これも最初から決まっていたのではなくて、今でも続いているんですけど『lain』のデジタル関係のスタッフの間にクローズドのBBSがありまして、そこで情報のやり取りをずっとやってたんです。そこで、COSっていうのがちょっと前に話題になったんですね。ドイツの無名のメーカーがマック互換のOSを作って、メモリの消費も少ないんで当然マックOSよりも安く使えるよっていうお話。そのスクリーン・ショットとかが出てくるんですが、どう見ても「これ、私だって作れるよ」という程度の安易なもので。これがどうも詐欺だったらしいんです。それ以来、COS、COSって私たちは笑い話にしていたんですが、あとで『lain』に出して、実際に画面を作る時に「じゃ、COSのCは何にする?」ということになって、じゃCoplandにしようと。 Copla ndというのは、本来はマックOS7.6になるはずだったんですけど、開発途中で修正がかかりまして、幻のOSになってしまったんです。ほんとに出来ていたらMacOS Xくらいの、かなりクリエイティヴな能力があり、カーネルがしっかりしてるんで、それでメモリー保護もしっかりしてたり、そんなすごいものになるはずだったんですけど、現実的にはOS7のリファインに留まってしまった。『lain』のスタッフはマッキントッシュOSの好きな人が多いんです。でも、これはアニメ界はみんなそうですね。いやこれが、そこまで好きなのかって私も驚くほどで。十一話でも、Think diffrentみたいなコピーが出てくるし、「そこまで君たちはMacが好きか!」って逆に驚きましたね。やっぱりアニメーターとか感覚的な人たちが多いので、多少でも直感で触れられる方がいいんでしょう。私自身は仕事というか、小説やシナリオはウィンドウズで書いて、グラフィックはマックでと二つを使い分けています。でも、実際の lainファンはウィンドウズのユーザーが多いですね。まあ、それは世間の比率と同じじゃないでしょうか。

HK 小中さんご自身は先ほど、お仕事の中心はホラーだとおっしゃってましたけど、その嗜好および志向はどこから来てるんですか? 何かルーツがあるんでしょうか?

小中 映像を作る仕事をしたいと思ったのは小学生の時からで、それはやっぱり『ウルトラマン』のシリーズや東宝の怪獣映画、あるいは、70年代のチャールトン・へストン主演のスペクタル映画、SFX映画の影響ですね。そういうものを兄弟で見に行っているうちに、自分たちで映画を作り始めた。小学校の低学年の時に、ぬいぐるみのくまを役者に見立てて撮ったのが一番最初ですが、このくまちゃんというのもSFだったんですよ。宇宙から来たクマだったんです。映画の『くまちゃん』('94)というのは、ロマンチックコメディーにくまというトリックスターを加えたような話ですが、もともとのくまちゃんっていうのは、小中兄弟にとってはSFヒーロー的な存在だったんです。
ちょうど中学生の時に『エクソシスト』と『ヘルハウス』が公開されて、あと個人的に影響を受けたのは、ダン・カーチスの 『家』という映画ですが、とにかくホラー映画を見て、こんなに恐い思いをさせられるのかって衝撃を受けた反面、どうしてこんな感情になるのかなって、頭の半分でずっと計算しながら見ていたんです――その頃から、映画を見る時でも、純粋に楽しまない嫌な奴だったんですよ――。それで「そうか、こっちが怖がろうとしてるからだ」というふうに思って、他の映画だと違うのに、ホラーの場合は映画と観客の間に「さぁ、怖がらせてくれ」というような、ある種の共犯関係があることに気づいたんです。作り手と受け手の双方に、そういう関係があって初めて成立するジャンルというのは、構造的に面白いなと思いましたね。それが出発点になっているのかもしれません。

HK 確かに、だまされる気でいないと駄目ですよね。ああいう映画は楽しめない。

小中 頭から、特撮のトリックを見破ってやろうって思いながら映画を見に行く人もあんまりいないとは思うんですけどね。人間の感情の中で、「わー素敵だ」とか「楽しいな」っていうのは、ありうべきもので、怖いとか気持ち悪いというのは、自ら望んでなりたいとは思わない感情のはず。それなのに、わざわざ気持ち悪くなろうと思ってお金を払って、あの薄暗い小汚い映画館という空間に身を投じる行為というのは、相当なものだと思うんですよ。見る人に容赦なくぶつける、ホラーのテクニックというのも、冷静に見ると「ああ、なるほど。そういうやり方があるのか」と感心する。そうやって何となく惹れていって、小説も含めてホラーというものを意識的に眺めるようになっていったんです。
自分がシナリオ・デビューした作品もホラービデオなんですが、私は、自主映画の時ですらまともにシナリオといえるようなものを書かないまま、プロになった。最初からコンテだけで撮っていたようなところがあって、本格的にシナリオの勉強をした経験もないんです。ただ、以前にTBSの緑山スタジオでテレビドラマの特撮コンサルタントをした事があって、そこでシナリオの構造・役割というものを仔細に検討したんですね。「ああなるほど、そういう風に映像化されるのね」っていうようなことが判ったんです。それまでは自主映画の延長で、何となくテレビのミニ番組なんかの演出ををやっていたのが、ある時、なぜかいきなりシナリオを書けって言った監督がいまして、やってみると自分に合ってたんですよね。やっぱり私は、ものを作っていくベーシックな部分で、監督と喧嘩をしつつ共闘していくライターというポジションが自分に合っている気がしまして、かつ、いろいろな縁があってホラー作品を集中的に作ることが出来た。それはちょうど、ビデオシネマというのが出始めの時期と重なって、映画でもテレビでも出来ないことが出来るかもしれないという幻想が抱けたんですよね。そこでは実際、好きなことが出来たことは出来たけど、まあ見てくれる人も少なかったし、いつのまにか終わってしまったジャンルなんですけどね。ですが、その時にいろいろと怖がらせの実験ができたのが、今の自分の技術の基礎になっていると思うんです。そういった意味でも、ホームグランドはやっぱりホラーです。

HK 今現在のお仕事と、これからの予定は?

小中 来年初頭に、手塚治虫原作の実写映画『ガラスの脳』が公開になります。来年はあと、ややエロティックなSFをオール3D CGで描く作品『Malice@Doll』が発売になります。いまは円谷映像の作品で『蛇女』という映画を書いてます。昔の東宝の変身人間シリーズみたいなものをやろうと企画して、二年前に書いたプロットが、なぜか今頃になって通ったんです。あと来年のテレビの仕事がいくつかあり、すべて実写ですが、再来年には弟と、とても世界的に有名なアニメ作品のリメイクに取り組みます。